2016年6月29日水曜日

奥多摩 梅雨のテント泊

 6月に入って少し経った頃のこと。
気づけば、あっという間に月日が経ってしまっていた。

 うかうかしていられない。
晴れが続いていたので、
よし、7日間ほど山を歩こう、
と思いたったのだけど、いつの間にか雨マークに変わっていた。

 関東も梅雨入りをした、と、どこかで耳にした。
季節は待ってくれなかった。一歩出遅れてしまったようだ。

 仕方がないので7日間の山歩きはやめにして、梅雨らしく、家でじっとすることにした。しかしどこか期待を持ちながら。

 梅雨の空はころころと変わる。
雨かと思えば、急にお日さまが覗いたりする。
気が気じゃない。もしかしたら、ということが急に訪れるかもしれない。

 ほら、やっぱり。
週の終わりには晴れマークが見え隠れし始めた。
 滞っていた山の準備を何となしに再開する。それでも信用ならないので、本腰を入れられず、ゆらゆらと、どっちつかずに揺れていた。

 予報は少し揺れ動いたが、お日さまマークは最後までそこにとどまっていた。
本腰を入れられないまま来てしまったので、なんだかやりきれない感じがあるけれど、もう、思い切って出かけることにした。


 早朝、バイクで走りだす。
 日の出はもうずいぶんと早く、梅雨が通り過ぎてしまったような初夏の日の朝だった。
さわやかな外気の中を走り抜け、気持ちのいい朝の光を浴びる。
気分もさっぱりとする。ああ、山に出かけることにしてよかったのだ、と確信する。


 2時間ほど走り続け、奥多摩駅に到着した。
そこからバスで30分ほど行くと小川谷林道からの登山口がある。そこからぐるりと雲取山の方まで歩いていこうと思ったのだ。
 わたしの選んだ道はアズマシャクナゲの群生地がある。時期が少しばかり遅いかもしれないが、運が良ければ咲き誇る花々の中を歩くことができる、すてきな山道であるはずだ。
 また、原生林の森を通ることになる。みずみずしい6月の原生林、最高に気持ちがいいんじゃないだろうか、、と妄想する。
 少々オーバーウォークになってしまうがやれないことはないなと思い、かなり遠回りになるその道を選ぶことにしたのだ。


 乗り込んだバスは登山者で溢れていたが、途中の登山口でどっさりと降りていき、終点まで残ったのは小慣れた感じの登山の格好をしたおじさんと、同じくそういった装いのおばさんと、パンプスにスカート、チノパンという、山歩きには相応しくない格好をした若いカップルだけだった。
 バスを降りるとおじさんとおばさんはそれぞれに山へと入っていき、カップルは観光地である日原鍾乳洞の方へと散り散りに消えていった。
  わたしはというと、途中までおじさんおばさんと同じ方向へ進んだが、登山道の分かれ道でひとりきりとなった。
 わたしの進む道は 鬱蒼と草木が茂る登り坂だった。見上げるほど、ずっと登り坂が続いている。今まで平坦な道を歩いてきたのでたじろいだ。ああ、わたしだけこの急な登り坂を行くのかと。少々気後れしてしまう。
 しかしこの道を進むと決めたのだから、と、自分に言い聞かせ、前へ進むことにした。

 青々しい香りがむわっとする。 初夏の日差しを浴びた草木の勢いったらハンパない。
 日差しが、きらきら、からギラギラに変わりつつある。頰を伝う汗をぬぐい、手拭いで頭を覆う。
 息が上がる。こんな夏みたいな日の、山登りらしい山登りは久しぶりで、照りつける登りの山道には少々うんざりしてしまう。
 それでもしばらく登ると 高い木々が空を覆い、深く青い森が姿をあらわす。
しっとりとした木々のあいだを気持ちの良い風が抜ける。森が作った日陰にちらちらと陽の光が揺れる。
 木々の奥の方にふっと建物が現れた。 
おそらく、地図に記されていた、「大日神社」だろう。
近寄ってみると、しばらく放ったらかしにされてしまっているのだろうか、屋根は崩れ、戸が傾き、半開きになっている。
静かに朽ち果てようとしていた。
その様はなんだか神妙で、しかしまだ人の息遣いがかすかに聞こえてくるようだ。

 鳥居の前でザックを降ろし、少し手を合わせてから先を進んだ。



 しばらく歩くと開けた平地の森があらわれた。


 近い山域だからか、なんだか奥秩父の山の雰囲気に似ているように思う。
 こんな開けた森があるなら、いざとなったらテン場までたどり着けなくても野営できるな、と、心なしか少し安心する。


 登りは最初に到達する頂上まで続くが、ちょこちょこと平地や下り坂もあり、少しずつ山に変化が出てくる。また景色も豊かになってゆく。

舞茸みたいなキノコ

ちっちゃいサルノコシカケ

生え方がすごく魅力的


そしてまた建物が現れた。





 もう少し先の山頂に天祖神社があるはずで、その手前の会所のようだ。といっても、使われているかどうかは定かではない。戸の建てつけが悪くなっているようだが、数年内に人の手が加わった感じもある。
新緑に囲まれた丘の上にポッコリとあり、その佇まいがよかった。


 そして天祖山山頂の天祖神社。


なだらかな丘にすっと現れたので、ここが山頂という気はしなかった。
しかしその緩やかな山のてっぺんに静かに存在しながらも、そこには厳かな空気が漂っているような気がした。

 結構きれいに保たれているので廃神社ではなさそうだがここは標高1723mで、それなりに標高があり、登り坂が続くのでなかなか大変だ。
神社を保つためにこの山道を行き来している人がいるのだろうか。



門は閉まっていて入れず、柵から中を覗くと、小さな祠が社の周りを囲っていた。



 さらに先をゆく。
ここから今いる尾根を少し下り、水松山の尾根へと入ってゆく。



サラサドウダン

尾根に木の根っこが張り巡り、なんだかすごいことになっている


 このあたりは植生に変化があって歩いていて面白かった。
途中、シダ類が茂る原生林のようなしっとりとした森があった。うつくしく、気持ちのいい森。この景色に出会えた喜びは大きかった。


シダの森。うっとりとしてしまった




 
 埼玉県と東京都の県境である長沢背稜に行き当たり、雲取山方面へ、県境の上を進む。

 そしてこのあたりから体の疲れが目立ってくる。そろそろ歩き始めて5時間ほど。しかし後3時間は歩かなければならない。
上り坂が辛いが、気合を入れて歩くしかない。休み休み水を飲み、行動食を食べてなるべく消耗しないように心がける。
 そして残念なことに、少し期待を持っていたアズマシャクナゲの群生地は、見事に時期が過ぎていた。今年は暖かかったから開花時期が早かったのかもしれない。
 群生地は、花がなければしんどいばかりの上り坂だ。心が折れてしまいそうになるが、この先を行くしかない。

 しかしその先を登ると、気持ちのいい尾根だった。
その頃には足がくたくたで、全身の疲れで朦朧としていたので全く余裕はなかったが。
なんとかテン場まで歩ききったようだ。


 残りの余力でのろのろとテントを建て、すべてを終えるとバタンと突っ伏してしまった。

 気がつくと、あたりは薄暗くなっていた。1時間ほど眠ってしまっていたのだ。
起き上がろうとする体が重く、足の筋肉という筋肉が痛い。
もう、何もしたくない。
 明日、こんな状態で歩けるのだろうか、いや、歩かなければならないのだ。そして多分、明日には歩けるようになっている。
 そうなっていればいいという期待と、そうでなければ困るという想いと、そうなるはずだという自信。自分でもよく分からない感情で、この状況と向き合っている。そして、ただただ疲れていて、頭が回らない。
 そういえば空腹状態が極限を超えていたんだ、ということを思い出し、疲れが勝っていたのだが、明日のことを思って無理やり気力を起こして食事をした。そしてさっさと眠ってしまうことにした。



 隣のテントのゴソゴソ、という音で目を覚ます。

 わたしのテントの両隣には、ソロで歩いているお兄さんがいた。一人で歩いているお兄さんは大抵そう見えてしまうのだが、それぞれに寡黙でクールな雰囲気で、とっつきにくい感じがする。もしかしたら、相手からも自分がそう見えているのかもしれないが(全くそんなことないのだけど。そして相手も同様にそうなのかもしれない)。だから、最初にテン場に入る時に挨拶しただけで、あとは会話はしなかった。…それ以前に疲れていて誰かと話す気力さえなかったということが本当のところではあるのだが…。

 右側のお兄さんは行動が凄まじく早く、日が昇る前、他の誰よりも早くに、いつの間にかテン場から姿を消していた。
 左側のお兄さんもわたしより少し早めの撤退。
 わたしはというと、早くに目を覚ましたものの、のんびりとコーヒーをすすり、体を起こし、日の出を拝んでから撤退をした。


昇ったばかりの太陽。肉眼では真っ赤っかだった




 早朝の森はしっとりとしている。空気が水気を多く含み、靄となってあたりに漂っている。
 どこからか、フクロウの鳴き声がする。
まだ、多くの生き物が目覚める前、早起きな鳥の声だけが静かな森に響き渡る。





 朝一番。 雲取山の山頂にたどり着いた。
日が昇っていて明るいが、ガスがかかり、景色は何も見えなかった。それでも山の頂上というだけで、なんでか気持ちがいい。
 ここで、朝食を作って食べることにした。



 雑炊を煮立たせて、ゆっくりと食事をしながら行き交う人々を眺めていた。
 山頂は、わたしを含め、多くの人の足を止めさせる。たとえ見晴らしが悪くてもあたりを見回し、ちょっと休憩し、記念撮影をし、思い思いに過ごしてから通り過ぎてゆく。
 山頂というだけで、人を留まらせるのだ。
 そんな山頂でわたしは誰よりも長居をし、早朝から朝になったところで山を下っていった。


 朝といっても山に完全に陽が届くのはお昼より手前の、太陽が完全に昇りきってからで、それより前はみずみずしい早朝の余韻が山中を漂っている。
 
 6月の奥多摩の山に入って気づいたのは、蕗が見事だということ。所々に蕗畑があり、いきいきと茂っているのだ。
 特に、朝がうつくしい。
しっとりとした靄の中に薄く陽が差し、みずみずしく光る蕗。
 朝の時間が作り出す蕗畑は幻想的だった。
 時として山頂で見る景色よりも、森の中で出会う風景に感銘を受けることがある。この、朝の蕗畑は、わたしにとってそんな風景の一つだった。
 一晩山で過ごし、この景色に出会えて本当によかったと思う。
これでこの山域がずいぶん好きになってしまったようだ。







 山小屋がいくつか続くメインストリートのような山道を過ぎると、先ほどまで数人の登山者にすれ違っていたのがぱったりとなくなり、シンとした、静かな森を歩いていた。
 歩いていて、何かの気配を感じ、森の奥を見ると数匹のニホンザルがいた。
少しだけ、目が合った気がする。ちょっとだけ胸が弾む。
 その後少し進むと、今度はニホンジカが朝の光を浴びながら、悠々と森の奥を歩くすがた。陽の光のせいか、なんだかうつくしい光景だ。
 うわー、と、思わずため息が出る。
 山で野生の生き物を見つけるとどうにもワクワクしてしまうのだ。
 ありふれた獣で、むしろ増えてしまっていて地域の人や山の環境を保全する立場の人は困っているのかもしれないが、山を歩いていてもそう頻繁に会えるものでもないので、そのすがたを垣間見れた時はやっぱり嬉しい。 
 朝、一人で静かに歩いていると彼らに会える確率が高くなるようだ。




  そろそろずいぶん歩いたなという頃に鮮やかな色が目にはいる。



 ヤマツツジだ。
ヤマツツジのピンク色は新緑のこの時期、山の中ではひときわ目立っている。
しかしこのヤマツツジ、都会で見かけるものよりは柔らかい色をしている。それでも山の色に混ざると、目の覚めるような色を放ち、それでいて調和のとれたピンク色なのだと感じる。
 6月のいま、山の中でどんな花よりも力強く咲き誇っていた。



 
 そうして陽がずいぶんと昇った頃、徐々にすれ違う人が増えてゆく。団体で楽しそうに歩く年配の登山者、一人で寡黙に歩く男性、山ガール風の女子たち、颯爽と走り抜けていくマウンテンバイクのお兄さんやトレイルランナーの人々。
 奥多摩の山は、ジャンルレスに多くの人を受け入れ、愛されているのだろうと感じる。首都圏に住まう私たちにとって気軽に行くことのできる、親しみやすい山なのだ。

 わたしはどんどんと下る。ひたすら下る。
 下山に選んだ道は思いのほか急勾配で、いかにも植林地帯の杉林をひたすら下る。下りすぎて、膝がおかしくなりそうだ。時折、登ってくる人とすれ違うのだが、かなり辛そうだ。なにしろ本当にひたすら急勾配の、杉の木しかない道なのだ。下りならまだしも、登りなんて試練でしかないと思う。
 地図でよくよく見ると確かに等高線が細かくなっていて急坂であることを示しているが、一見わからない。これは気軽に入れる山のちょっとした落とし穴だ。アクセスがいいからとか、簡単な理由で決めてしまっては後々後悔するということを思い知らされるような道であった。
 小走りで駆け下りていく。ひたすら続く下り坂を利用して、でも勢いがつきすぎないようスキーみたいにトレッキングポールで時折ブレーキをかけ、スピードを調節する。1時間以上そんなことをやっている。いつまで続くのだろうか。
 ひたすら駆け下りていると膝への負担が大きくなるのでだんだん足が保たなくなってくる。
 一旦休憩を入れ、GPSで位置確認をしてみると、あと30分ほど歩けば下りきるぐらいだろうか。よかった。ゴールが思いのほか近いとなればあとは歩いていこう。
 そう思って歩き出すが、この下山するまでの道のりは辛く、ずいぶんと長く感じられた。

 そしてついにアスファルトの地面を踏んだとき、膝はガタガタだった。踏み込んだ足に力が入らず、歩き方がぎこちない。思った以上に疲れきっている。
 実は、このあとさらに御岳山の山域に入っていき、もう一泊する計画を立てていたのだが、早朝から歩き続けて7時間、そしてこれから3時間の上り坂を、このガタガタの足でこなせるのか、という疑いが大きく膨らんだ。
 アスファルトの道を歩きながら頭の中で葛藤を続けていたが、結局、疲労が勝ってしまう。
 もう、こんな足じゃ歩けない。やっぱり楽しく山を歩きたい。わたし、アスリートじゃないんだから。そんな無理する必要ないじゃない。弱音がどんどん出てくる。

 よし、もう帰ろ。十分満喫できたし。温泉にでも入ってのんびり帰ろっと。
 
 こうして梅雨の合間の短い旅は終わったのだ。