2016年6月29日水曜日

奥多摩 梅雨のテント泊

 6月に入って少し経った頃のこと。
気づけば、あっという間に月日が経ってしまっていた。

 うかうかしていられない。
晴れが続いていたので、
よし、7日間ほど山を歩こう、
と思いたったのだけど、いつの間にか雨マークに変わっていた。

 関東も梅雨入りをした、と、どこかで耳にした。
季節は待ってくれなかった。一歩出遅れてしまったようだ。

 仕方がないので7日間の山歩きはやめにして、梅雨らしく、家でじっとすることにした。しかしどこか期待を持ちながら。

 梅雨の空はころころと変わる。
雨かと思えば、急にお日さまが覗いたりする。
気が気じゃない。もしかしたら、ということが急に訪れるかもしれない。

 ほら、やっぱり。
週の終わりには晴れマークが見え隠れし始めた。
 滞っていた山の準備を何となしに再開する。それでも信用ならないので、本腰を入れられず、ゆらゆらと、どっちつかずに揺れていた。

 予報は少し揺れ動いたが、お日さまマークは最後までそこにとどまっていた。
本腰を入れられないまま来てしまったので、なんだかやりきれない感じがあるけれど、もう、思い切って出かけることにした。


 早朝、バイクで走りだす。
 日の出はもうずいぶんと早く、梅雨が通り過ぎてしまったような初夏の日の朝だった。
さわやかな外気の中を走り抜け、気持ちのいい朝の光を浴びる。
気分もさっぱりとする。ああ、山に出かけることにしてよかったのだ、と確信する。


 2時間ほど走り続け、奥多摩駅に到着した。
そこからバスで30分ほど行くと小川谷林道からの登山口がある。そこからぐるりと雲取山の方まで歩いていこうと思ったのだ。
 わたしの選んだ道はアズマシャクナゲの群生地がある。時期が少しばかり遅いかもしれないが、運が良ければ咲き誇る花々の中を歩くことができる、すてきな山道であるはずだ。
 また、原生林の森を通ることになる。みずみずしい6月の原生林、最高に気持ちがいいんじゃないだろうか、、と妄想する。
 少々オーバーウォークになってしまうがやれないことはないなと思い、かなり遠回りになるその道を選ぶことにしたのだ。


 乗り込んだバスは登山者で溢れていたが、途中の登山口でどっさりと降りていき、終点まで残ったのは小慣れた感じの登山の格好をしたおじさんと、同じくそういった装いのおばさんと、パンプスにスカート、チノパンという、山歩きには相応しくない格好をした若いカップルだけだった。
 バスを降りるとおじさんとおばさんはそれぞれに山へと入っていき、カップルは観光地である日原鍾乳洞の方へと散り散りに消えていった。
  わたしはというと、途中までおじさんおばさんと同じ方向へ進んだが、登山道の分かれ道でひとりきりとなった。
 わたしの進む道は 鬱蒼と草木が茂る登り坂だった。見上げるほど、ずっと登り坂が続いている。今まで平坦な道を歩いてきたのでたじろいだ。ああ、わたしだけこの急な登り坂を行くのかと。少々気後れしてしまう。
 しかしこの道を進むと決めたのだから、と、自分に言い聞かせ、前へ進むことにした。

 青々しい香りがむわっとする。 初夏の日差しを浴びた草木の勢いったらハンパない。
 日差しが、きらきら、からギラギラに変わりつつある。頰を伝う汗をぬぐい、手拭いで頭を覆う。
 息が上がる。こんな夏みたいな日の、山登りらしい山登りは久しぶりで、照りつける登りの山道には少々うんざりしてしまう。
 それでもしばらく登ると 高い木々が空を覆い、深く青い森が姿をあらわす。
しっとりとした木々のあいだを気持ちの良い風が抜ける。森が作った日陰にちらちらと陽の光が揺れる。
 木々の奥の方にふっと建物が現れた。 
おそらく、地図に記されていた、「大日神社」だろう。
近寄ってみると、しばらく放ったらかしにされてしまっているのだろうか、屋根は崩れ、戸が傾き、半開きになっている。
静かに朽ち果てようとしていた。
その様はなんだか神妙で、しかしまだ人の息遣いがかすかに聞こえてくるようだ。

 鳥居の前でザックを降ろし、少し手を合わせてから先を進んだ。



 しばらく歩くと開けた平地の森があらわれた。


 近い山域だからか、なんだか奥秩父の山の雰囲気に似ているように思う。
 こんな開けた森があるなら、いざとなったらテン場までたどり着けなくても野営できるな、と、心なしか少し安心する。


 登りは最初に到達する頂上まで続くが、ちょこちょこと平地や下り坂もあり、少しずつ山に変化が出てくる。また景色も豊かになってゆく。

舞茸みたいなキノコ

ちっちゃいサルノコシカケ

生え方がすごく魅力的


そしてまた建物が現れた。





 もう少し先の山頂に天祖神社があるはずで、その手前の会所のようだ。といっても、使われているかどうかは定かではない。戸の建てつけが悪くなっているようだが、数年内に人の手が加わった感じもある。
新緑に囲まれた丘の上にポッコリとあり、その佇まいがよかった。


 そして天祖山山頂の天祖神社。


なだらかな丘にすっと現れたので、ここが山頂という気はしなかった。
しかしその緩やかな山のてっぺんに静かに存在しながらも、そこには厳かな空気が漂っているような気がした。

 結構きれいに保たれているので廃神社ではなさそうだがここは標高1723mで、それなりに標高があり、登り坂が続くのでなかなか大変だ。
神社を保つためにこの山道を行き来している人がいるのだろうか。



門は閉まっていて入れず、柵から中を覗くと、小さな祠が社の周りを囲っていた。



 さらに先をゆく。
ここから今いる尾根を少し下り、水松山の尾根へと入ってゆく。



サラサドウダン

尾根に木の根っこが張り巡り、なんだかすごいことになっている


 このあたりは植生に変化があって歩いていて面白かった。
途中、シダ類が茂る原生林のようなしっとりとした森があった。うつくしく、気持ちのいい森。この景色に出会えた喜びは大きかった。


シダの森。うっとりとしてしまった




 
 埼玉県と東京都の県境である長沢背稜に行き当たり、雲取山方面へ、県境の上を進む。

 そしてこのあたりから体の疲れが目立ってくる。そろそろ歩き始めて5時間ほど。しかし後3時間は歩かなければならない。
上り坂が辛いが、気合を入れて歩くしかない。休み休み水を飲み、行動食を食べてなるべく消耗しないように心がける。
 そして残念なことに、少し期待を持っていたアズマシャクナゲの群生地は、見事に時期が過ぎていた。今年は暖かかったから開花時期が早かったのかもしれない。
 群生地は、花がなければしんどいばかりの上り坂だ。心が折れてしまいそうになるが、この先を行くしかない。

 しかしその先を登ると、気持ちのいい尾根だった。
その頃には足がくたくたで、全身の疲れで朦朧としていたので全く余裕はなかったが。
なんとかテン場まで歩ききったようだ。


 残りの余力でのろのろとテントを建て、すべてを終えるとバタンと突っ伏してしまった。

 気がつくと、あたりは薄暗くなっていた。1時間ほど眠ってしまっていたのだ。
起き上がろうとする体が重く、足の筋肉という筋肉が痛い。
もう、何もしたくない。
 明日、こんな状態で歩けるのだろうか、いや、歩かなければならないのだ。そして多分、明日には歩けるようになっている。
 そうなっていればいいという期待と、そうでなければ困るという想いと、そうなるはずだという自信。自分でもよく分からない感情で、この状況と向き合っている。そして、ただただ疲れていて、頭が回らない。
 そういえば空腹状態が極限を超えていたんだ、ということを思い出し、疲れが勝っていたのだが、明日のことを思って無理やり気力を起こして食事をした。そしてさっさと眠ってしまうことにした。



 隣のテントのゴソゴソ、という音で目を覚ます。

 わたしのテントの両隣には、ソロで歩いているお兄さんがいた。一人で歩いているお兄さんは大抵そう見えてしまうのだが、それぞれに寡黙でクールな雰囲気で、とっつきにくい感じがする。もしかしたら、相手からも自分がそう見えているのかもしれないが(全くそんなことないのだけど。そして相手も同様にそうなのかもしれない)。だから、最初にテン場に入る時に挨拶しただけで、あとは会話はしなかった。…それ以前に疲れていて誰かと話す気力さえなかったということが本当のところではあるのだが…。

 右側のお兄さんは行動が凄まじく早く、日が昇る前、他の誰よりも早くに、いつの間にかテン場から姿を消していた。
 左側のお兄さんもわたしより少し早めの撤退。
 わたしはというと、早くに目を覚ましたものの、のんびりとコーヒーをすすり、体を起こし、日の出を拝んでから撤退をした。


昇ったばかりの太陽。肉眼では真っ赤っかだった




 早朝の森はしっとりとしている。空気が水気を多く含み、靄となってあたりに漂っている。
 どこからか、フクロウの鳴き声がする。
まだ、多くの生き物が目覚める前、早起きな鳥の声だけが静かな森に響き渡る。





 朝一番。 雲取山の山頂にたどり着いた。
日が昇っていて明るいが、ガスがかかり、景色は何も見えなかった。それでも山の頂上というだけで、なんでか気持ちがいい。
 ここで、朝食を作って食べることにした。



 雑炊を煮立たせて、ゆっくりと食事をしながら行き交う人々を眺めていた。
 山頂は、わたしを含め、多くの人の足を止めさせる。たとえ見晴らしが悪くてもあたりを見回し、ちょっと休憩し、記念撮影をし、思い思いに過ごしてから通り過ぎてゆく。
 山頂というだけで、人を留まらせるのだ。
 そんな山頂でわたしは誰よりも長居をし、早朝から朝になったところで山を下っていった。


 朝といっても山に完全に陽が届くのはお昼より手前の、太陽が完全に昇りきってからで、それより前はみずみずしい早朝の余韻が山中を漂っている。
 
 6月の奥多摩の山に入って気づいたのは、蕗が見事だということ。所々に蕗畑があり、いきいきと茂っているのだ。
 特に、朝がうつくしい。
しっとりとした靄の中に薄く陽が差し、みずみずしく光る蕗。
 朝の時間が作り出す蕗畑は幻想的だった。
 時として山頂で見る景色よりも、森の中で出会う風景に感銘を受けることがある。この、朝の蕗畑は、わたしにとってそんな風景の一つだった。
 一晩山で過ごし、この景色に出会えて本当によかったと思う。
これでこの山域がずいぶん好きになってしまったようだ。







 山小屋がいくつか続くメインストリートのような山道を過ぎると、先ほどまで数人の登山者にすれ違っていたのがぱったりとなくなり、シンとした、静かな森を歩いていた。
 歩いていて、何かの気配を感じ、森の奥を見ると数匹のニホンザルがいた。
少しだけ、目が合った気がする。ちょっとだけ胸が弾む。
 その後少し進むと、今度はニホンジカが朝の光を浴びながら、悠々と森の奥を歩くすがた。陽の光のせいか、なんだかうつくしい光景だ。
 うわー、と、思わずため息が出る。
 山で野生の生き物を見つけるとどうにもワクワクしてしまうのだ。
 ありふれた獣で、むしろ増えてしまっていて地域の人や山の環境を保全する立場の人は困っているのかもしれないが、山を歩いていてもそう頻繁に会えるものでもないので、そのすがたを垣間見れた時はやっぱり嬉しい。 
 朝、一人で静かに歩いていると彼らに会える確率が高くなるようだ。




  そろそろずいぶん歩いたなという頃に鮮やかな色が目にはいる。



 ヤマツツジだ。
ヤマツツジのピンク色は新緑のこの時期、山の中ではひときわ目立っている。
しかしこのヤマツツジ、都会で見かけるものよりは柔らかい色をしている。それでも山の色に混ざると、目の覚めるような色を放ち、それでいて調和のとれたピンク色なのだと感じる。
 6月のいま、山の中でどんな花よりも力強く咲き誇っていた。



 
 そうして陽がずいぶんと昇った頃、徐々にすれ違う人が増えてゆく。団体で楽しそうに歩く年配の登山者、一人で寡黙に歩く男性、山ガール風の女子たち、颯爽と走り抜けていくマウンテンバイクのお兄さんやトレイルランナーの人々。
 奥多摩の山は、ジャンルレスに多くの人を受け入れ、愛されているのだろうと感じる。首都圏に住まう私たちにとって気軽に行くことのできる、親しみやすい山なのだ。

 わたしはどんどんと下る。ひたすら下る。
 下山に選んだ道は思いのほか急勾配で、いかにも植林地帯の杉林をひたすら下る。下りすぎて、膝がおかしくなりそうだ。時折、登ってくる人とすれ違うのだが、かなり辛そうだ。なにしろ本当にひたすら急勾配の、杉の木しかない道なのだ。下りならまだしも、登りなんて試練でしかないと思う。
 地図でよくよく見ると確かに等高線が細かくなっていて急坂であることを示しているが、一見わからない。これは気軽に入れる山のちょっとした落とし穴だ。アクセスがいいからとか、簡単な理由で決めてしまっては後々後悔するということを思い知らされるような道であった。
 小走りで駆け下りていく。ひたすら続く下り坂を利用して、でも勢いがつきすぎないようスキーみたいにトレッキングポールで時折ブレーキをかけ、スピードを調節する。1時間以上そんなことをやっている。いつまで続くのだろうか。
 ひたすら駆け下りていると膝への負担が大きくなるのでだんだん足が保たなくなってくる。
 一旦休憩を入れ、GPSで位置確認をしてみると、あと30分ほど歩けば下りきるぐらいだろうか。よかった。ゴールが思いのほか近いとなればあとは歩いていこう。
 そう思って歩き出すが、この下山するまでの道のりは辛く、ずいぶんと長く感じられた。

 そしてついにアスファルトの地面を踏んだとき、膝はガタガタだった。踏み込んだ足に力が入らず、歩き方がぎこちない。思った以上に疲れきっている。
 実は、このあとさらに御岳山の山域に入っていき、もう一泊する計画を立てていたのだが、早朝から歩き続けて7時間、そしてこれから3時間の上り坂を、このガタガタの足でこなせるのか、という疑いが大きく膨らんだ。
 アスファルトの道を歩きながら頭の中で葛藤を続けていたが、結局、疲労が勝ってしまう。
 もう、こんな足じゃ歩けない。やっぱり楽しく山を歩きたい。わたし、アスリートじゃないんだから。そんな無理する必要ないじゃない。弱音がどんどん出てくる。

 よし、もう帰ろ。十分満喫できたし。温泉にでも入ってのんびり帰ろっと。
 
 こうして梅雨の合間の短い旅は終わったのだ。



2016年5月30日月曜日

人体実験的干物作り

 神津島滞在の2日目。

 干物作りをする。





 突いたブダイを腹開きにし、海水に30分ほど浸し、干す。

 作り方は諸説あり、塩分濃度は10〜15%がいいと言っている人もいれば3〜5%がいいとか、海水で出来るとか、塩水でなく塩を振って干すなど、調べるといろいろ出てくる。
 また、漬ける時間も20分〜1時間以上と様々。これは塩分濃度と魚の種類によるんだろうけど、とりあえず最もシンプルに海水で作れるというものをやってみることにした。
 それによると、20分ほど漬ければいいとあるが海水濃度は3.5%ほどなので、10
〜15%の塩水に1時間漬けるというものとは随分と差がある。見比べていくと海水で本当に浸かるのかどうか少し怪しく思えてくるがやってみないとわからない。
 目の前に海があってそれを活かさないわけにはいかないという気持ちに突き動かされる。
 海水でやってみよう。ただ、漬ける時間を少し長めにみることにする。
 

ブダイの腹開き。水っぽい魚なので干して旨みが出ることに期待


 1日中天日干しし、海辺の潮風にさらす。午後になり、どこからともなく小蝿が集まってきた。醸し始めたのだろうか。魚の干され具合が気になって表面に触れてみる。まだまだしっとりとしていて全く干物らしくない。水分が多い分、数日は干さなければならないのかもしれない。



  夕方、また海に潜り、私は相変わらず一匹も突けなかったが、相方が、なんとイシガキダイを突いてきた。


 
 イシガキダイやイシダイ、クロダイなどは水深10m前後の場所にいる魚で、魚突きをやっていく段階で目標としてよく取り上げられ、イシダイを突くことができればスピアマンとしてそこそこの腕があるという風に見受けられる。5m以下で四苦八苦しているわたしにとってはまだまだ遠い魚であり、憧れでもある。
 そのイシガキダイを相方が突いてきたのだ。しかし、聞けば戻ってくるときに5m以下の浅場で見つけたという、ラッキーだったのだ。
 たまに、潮の流れなどの海の変化で浅場にいないはずの大物にお目にかかれるということがあるらしい。今回はまさに、そういうことだったのだと思う。
→相方に再度確認したところ、水深8mほどのところで見つけたらしく、いてもおかしくない場所で、特にラッキーではなかったようだ。また、イシダイ・クロダイなどは基本は沖の方にいるが潮通しによって浅瀬に来ることも稀ではないよう。私の聞き間違いの勘違い。。それにしたって私にはまだ手の届かない魚には違いないのだが。。

 
 イシガキダイはその日の晩、1/3ほどを食べた。刺身や塩をして焼き魚に。残りの身は全て干す。これらの身は塩を振って干してみることにした。



 イシガキダイは脂が乗っていて、焼き魚にするとなんともジューシーで美味しい。脂の甘みと塩気が相まってご飯がすすむ。こんなに美味しい魚があったのかと感激してしまった。
 ただ、イシガキダイにはシガテラ毒という毒があると言われていて、ある植物性プランクトンを食べることで毒が蓄積され、個体が大きいほどその危険性があるという。死亡例はほとんどないが、毒によって下痢や腹痛、吐き気、頭痛、痺れなどの症状が出ることがあるらしい。しかも、症状が重いと半年〜数年はその症状が続くらしく、それを聞くとちょっと怖い。
 しかし、それだけといえばそれだけ。シガテラ毒ではそう簡単には死なないので結構食べてる人は多いよう。なんてったって美味しいし。
 築地市場では大きいのは出回らないようだけど、九州とか沖縄では食中毒の報告が多いだけ、多分普通に食べているのだと思う。


 夕飯を終え、風が出てきた。今晩は大荒れの予報だったのだ。テントでしばらく過ごしていると、雨音がする。
 もう降り出してしまったか。
 急いで干しカゴをテント内に取り込むが魚が少し濡れてしまった。仕方がない。

 台風のような雨風が一晩中荒れ狂う。テントが持ってかれてしまうのではないかというくらい、激しく壁が揺れていた。

 朝になり、少しずつ風は弱まり、雨も静かになっていった。昼前にはすっかり止み、干しカゴをまた木に吊るす。
 晴れ間も見え、すっかりいい天気になってしまった。ただ、海はかなり波が高く、しばらくは潜れないだろう。


 昼に、昨日獲れたイシガキダイのエンガワとカシラあたりをいただいた。残りの半身はさらに干し、干物にする。

脂がとろけるようで激うま。頰肉も絶品だった


  午後の眩しい日差しを受け、干していた魚はあっという間に乾いていった。小蝿もまた、だんだんと群がってくる。一時はどうなるかと思ったが、順調に醸されているようだ。

 そして次の日、異変に気がついた。ブダイの匂いがおかしい。
 イシガキダイの方は、普通の干物の匂いなのに対し、ブダイは、ちょっと腐敗臭がする。。
 これ以上干してもしようがないと思ったので、その日の夜に食べてみることにした。

 


 見た目はいい感じの干物になっているが、、酒で戻し焼いてみるとアンモニアのような臭いが漂ってくる。。



  焼いたブダイの干物はパスタで和えて食べてみることにした。

 うーん、、干物の味ではあるが、ちょっと怪しい酸味がする、、?正直、臭いと酸味に邪魔されて、食がすすむ味ではない。。
 ちなみに、このパスタの中には初日に「よっちゃれーセンター」で買った魚のミンチも入っている。ちょっと痛み始めていたので、酸味の原因はどちらだろうか、それとも両方なのか。。
 なんとも複雑な味だったが、食べれないことはない。相方が半分以上食べてくれて、二人で食べきってしまった。
 その後、お口直しのボロネーゼパスタを食べ、後片付けも済んで眠りにつこうかとしていた時に、相方が突如腹痛と便意に襲われた。
 お腹を下したようだ。やっぱり、そうだったのだ。
 しかし原因はブダイなのか、ミンチなのか。
 また、わたしのお腹はなんともならなかったのも不思議だ。

 一つ言えることは、ブダイの干物は失敗したのだろう。敗因は、雨で濡らしてしまったことと、湿度の高い場所に一晩おいてしまったこと、そして魚に浸透した塩分が少なかったということだと思う。
 だからといって海水で作れないというわけではないと思う。もう少し長いあいだ海水に浸けておけば違うかもしれない。

 まだまだ奥が深い干物作り。もどかしいので、海水での干物作り、また挑戦しようと思う。
 

2016年5月25日水曜日

神津島、潜り潜る2日目

 ぱきんと目覚めた2日目。
前日の頭痛と気持ち悪さは嘘のようになくなり、体はすっきりとしていた。
 5時前。清々しい早朝。
テントの入り口をめくると、しっとりとした景色が向こう側にある。
陽が覗く前の空気は薄青く静まり、冷んやりとする。

 ゆっくりとチャイを作る。
普段はコーヒーばかり飲んでいるが、胃腸の状態が良くないので今回は思い切って持ってこなかった。
代わりに、スキムミルクと黒糖をたっぷり入れた、濃厚なチャイを作る。





 目の前の浜辺には天草が干されている。パッチワークのように配色された花壇みたいだ。
その先の水平線には一艘の白いヨットが浮かんでいた。
 ぼんやりと、チャイを啜りながら、ゆったりと流れる朝の時間を眺めていた。
やがて白いヨットは、空の向こうへ吸い込まれていった。




 ゆっくりと支度をはじめる。
顔を洗い、歯を磨きながら体を大きく伸ばし、首や腕などをぐるぐると回す。
 テントで眠ると少なからず体が凝り固まってしまうので、それをほぐしてやる。
また、筋という筋を伸ばし、海の中で体がつってしまわないようにする。

 5時、6時、7時とまわり、陽はいつの間にか昇ったのか、辺りに光が差していた。
 銛を組み立て、身支度を済ませ海へと向かう。
上下水着姿で海水に浸かってみる。思わず、ひぃぃっ、とこぼし、身が縮こまる。
 陽の射しはじめたばかりの海はまだ眠っているかのように冷たい。地上に比べ、朝がやってくるのが少し遅いようだ。これから徐々に陽に起こされるのだろう。
 一瞬戸惑いながらも腰まで浸かってしまう。そして、海水を手で掬って肩に掛け、頭から潜る。
 ひゃー、冷たいー
 喚きながらもウェットスーツのロングパンツを手元に引き寄せ海水に浸し、素早く慎重に、足を通していく。
ぐいぐいとたぐり寄せ、腰まで履いてしまえばこっちのもの。
 そしておいてけぼりになっている上半身。朝の風が吹き付けてくる。
 そそくさと上半身に着るウェットスーツの中に海水を流し込む。
 両腕を先に通し、それから頭からズッポリかぶって体を通すのだけど、久しぶりに着るのでこれでいいんだったか戸惑う。しかし腕は通してしまったし、体に風が当たって寒いので、いつまでもこうしてはいられない。
 思い切って腕と腕の間のウェットスーツの隙間に頭を突っ込む。苦しい。早く脱出しなければ。
 少し焦りながら頭のてっぺんで出口を探し、たどり着く。ぐいぐいぐいと頭を脱出させたが、顔から顎にかけての脱出が一苦労。うまくいかないとなかなか抜け出せなくて息苦しくなってくる。そうすると少々無理に顔を引っこ抜かなければならない。
 ウェットスーツに傷がつかないように、爪を立てないように生地を思い切り引っ張り、顔面を救出する。その際髪の毛が巻き込まれて引っ張られる。痛いのだが、顔の救出に全力を注いでいるので何本か抜けてしまった髪の毛にはかまってられない。
 そうしてなんとか暗闇から這い出れば一呼吸、落ち着くことができる。
 それから耳が折れ曲がらないように気をつけながらフードを被り、フィンブーツを履く。グローブをつけ、腕にゴムベルトでナイフを装着し、重りのベルトを腰につけ、メグシとナイフの落下防止のフックをベルトに引っ掛ける。
 頭に水中メガネを乗っけてフィンを履けばおしまいだが、ここまでたどり着くまでに30分はかかっている。潜るにも、一苦労だ。

 1年ぶりの海なので、わたしはまず手銛を持たず、潜る練習をする。
180センチもある手銛を持つと、そればかりに気を取られ、ただでさえ潜れないのにもっと潜れなくなってしまう。魚を突くのも潜るのも、どっちもまともにできないのでどっち付かずになり、何もできずに終わるという残念な経験を以前にしたことがある。
 なので、まずは潜る練習をと思い、手ぶらで海に入る。
 それでも腕にはナイフをつけ、腰にはメグシをつけて。魚突きをするときの道具を身に付けることに慣れる。また、魚を突かなくとも潜っている時に釣り糸が足に絡まってしまってどうにもいかない時など、ナイフに助けられることとなるだろう。

 
 浅瀬から、流れに身を任せ、すぃぃ、と入る。
シュノーケルを咥え、海の中を眺めながらプカプカと、そしてたまに漕いでみる。
 海の中は静かだった。はじめは少しばかりの波に揺すられ、波から起きた小さな泡や、静かに揺れ動く赤い天草が前を覆う。天草の森を抜け、赤茶色の海藻が施されシックな装いをした岩々をすり抜けていくと、次第に視界は広がり、底を見下ろす。ゆらゆらと、海面のリズムに合わせてキラキラとした光が踊る。
 時々、派手な色をした小さな魚がわたしの体の下や脇を軽々と通り抜けてゆく。
 向こうで、相方の潜っている姿が見えた。




 ふわふわと、流れる景色を眺めていた。
 岩々は、遥か下の、手の触れられないところにあった。海底は白い砂地になっていて、ぽこぽこと岩が並んでいる。岩と岩のあいだを、少し大きめな黒と白の縦縞模様の魚がスイスイと泳いでいく。あれは何がったか、、ナントカダイ。
 それはこの旅のあいだ幾度となく見かけることとなるタカノハダイだったのだが、このときの私は、あれ?もしかしてイシダイじゃないか?!と思い込んで興奮気味だった。
 イシダイって確か高級魚で脂が乗ってて美味しいんだっけ。どうしよう、真下にいる!、、でも手銛を持っていないし持ってたところで私には突けないだろうな、、なんて。
 後々調べてみれば色もかたちも全く違っていた。海に入る前にネットで何となしに見ていてもピンとこないのだけど、潜って出会った姿かたちや泳ぎ方でこれは誰なのかということが徐々にわかってくる。

 体が海に馴染んできた。
 呼吸を落ち着かせ、おもむろにシュノーケルを口から外す。すーっと深く息を吸い、鼻をつまんで軽く耳抜きをし、頭から、自分の体を目がけるように水に入り込む。足を漕ぎ、体を底へと向かわせる。
 見下ろしていた景色が目の前に迫る。指先で岩に触れる。
 頭がぴきぴきと痛くなってくる。すぐに上昇。顔を海から脱出させ、空気を取り込む。
 やっぱりか。耳抜きがうまくいかない。抜け切れてないのだろうか。潜ると頭の奥がぴきぴきとするので海の底で留まっていられない。
 どうにもうまくいかないので、時間をおいては海底へと潜る。しかし、力んではならないので、あまりそればっかりを考えないでふわふわと泳ぎ、不意に潜る。

 やがて人口的なブロック群が現れた。魚礁というやつだ。
四角い空洞のブロックがいくつも並んでいて、中を覗くと脚の長い、紫と白の配色の綺麗な色をした蟹や、大小の魚が行き交うのを見かけた。ブロックの影にとどまり、海藻を食んでいる魚もいる。多くの生き物がここを住処としているのだろうか。または交差点のような場所なのか。広大な砂漠の中にぽつんとあるオアシスのようでいて、大きな都市のようにも見える。
 魚礁ブロックの上には大きなシッタカがごろごろと張り付いていた。こんなに大きなシッタカは浅瀬にはいなかった。ここまで人はあまり来ないからなのか、或いはシッタカなんて誰も見向きもしないのか、獲られずに、ここまですくすくと大きく育ったのだろう。
 シッタカは茹でて食べると歯ごたえがあって美味しい。これらの貝はとっても怒られないってバスの運転手のおじさんは言ってたっけ。
 シュノーケルを外し、息を止め、手を伸ばす。
3、4個シッタカを拾い、魚礁の都市を後にした。



 向こうに目をやるとオレンジのブイが見える。相方の居所だ。ブイの何メートルか先で潜っているのだろう。
 追いかけていき、ブイを捕まえる。ブイにぶら下げていた網袋にシッタカを入れ、ぶらぶらと水面に浮かぶペットボトルを捕まえて水を飲む。少し塩水を飲んでしまっていて口が塩辛くなっていたので助かった。

 しばらく相方のそばで潜っていると唐突に海底に潜ってゆく姿があった。そして、海底に向けられた銛。獲物を捕らえたのだろうか。

 銛を手に持ち、ふわりと浮いてきた。よおくみると銛先に刺さっている。仕留めたのだ。




 わたしに気づき、こちらへゆっくりと向かってきた。
 小さな歯がじゃぎじゃぎに並んだ口。赤色が斑らに入った体。ブダイだ。お腹にぶすりと銛先が突き刺さっている。
 わたしのメグシに通してほしいということだろう。お互いにシュノーケルを咥えているので言葉は発せられず、何となしに察する。
 わたしの手元に獲物が向けられる。ジタバタと動くブダイを手でしっかりと押さえ込み、エラにメグシを通そうとする。
 通らない。すんなりといかず、躊躇してしまう。
 自分の手で、魚のエラから口へとメグシを通すのは初めてだった。今まで、相方がやっているのを横で見ていたけれど、実際に自分でやってみると思うようにいかない。ブダイはまだちゃんと生きていて、まだまだ生きようと必死であらがう。赤い水が、もわもわと舞う。
 わたしは怯んでしまう。けれど、待ってはくれない。
 思い切って手に力を込め、エラからグイグイと刺し、出口を探す。
 ようやく、口から金属の先端がのぞいた。


 
 体に刺さった銛先を抜く。弁のついた羽のような形状になっていて、突いた獲物が逃げられない構造をしているのでそう簡単には引っこ抜けない。無理に引っ張ると体がちぎれてしまいそうだ。
 どうにもいかないので銛先の接続部分を外してそちら側から引き抜く。

 銛先が魚から離れ、メグシにつながるコードにぶら下がり、重みが伝わる。
 続いて、魚を絞める。
 腕からナイフを抜き取り、目の脇にナイフを刺す。
 この行為も初めてで、手に力が入らない。左手で押さえた魚が脈打ち、蠢いている。わたしの鼓動も騒いでいる。
 見かねた相方がわたしを導く。
 そして、手伝ってもらいながら刃先が刺さる。思った以上に固くて、手に力を込めないとならない。生半可な気持ちでできるものではなく、”断つ”という意識がなければならない。それこそ躊躇なんかしてられない。
 どこかで決心がついたのか、吹っ切れたのか。
 意志を持ってナイフを強く握る。
 ざくざくと刃を入れていき、髄を断ち切るようにとどめを刺す。これが甘いといつまでも魚は意識がある状態で、苦しみ続けることとなる。
 髄は硬く、結構な力を要す。わたしはうまく急所を捉えることができず、何度も何度も刺すような、魚を苦しませるようなことをしてしまった。だんだんと自分自身も苦しくなり、弱気になってしまうが最後までやらなければならない。
  何度か刺し込んで、魚は絶命した。
 





 その後相方はもう一匹仕留めてきた。あの、わたしも見かけたシマシマの魚、タカノハダイだ。



 その魚もまた、わたしの手に渡され、先ほどと同じ工程を行う。今度は完全に自分の手で。
 やはりメグシを通す時、急所を断つ時、魚の息遣いとともに私の胸も激しく打っている。そう簡単に慣れっこない。それでも躊躇せず、手を動かしてゆく。的確とは言えないが、先ほどの感覚を糧に、先ほどよりも魚と向き合う。


 わたしの腰には二匹の魚がぶら下がり、ずっしりと重みを感じながら陸までゆっくりと漕いでゆく。

2016年5月18日水曜日

神津島、病み上がりな1日目ーオジサンとウミスズメー

 ゴールデンウィークの前半、よく晴れた日のこと。 
神津島に着いて1日目。港に着いたのは昼だった。

 前日はバイクで下田まで向かい、温泉宿で素泊まりし (とてもいいお湯で、お寺のお堂のような立派な造りの露天風呂だった)朝、下田港から発ったのだ。
 島にバイクを持っていくかギリギリまで悩んだが、やっぱりどう考えても高くついてしまうので辞めにした。島での移動手段は徒歩か1日4本出ているバスのみ。ポイントを転々としながらキャンプして魚突きをやりたいが、まあ臨機応変に考えていくしかない。

 わたしは出発前にひどい胃腸炎になってほとんど何も食べれない状態にあったが、旅に出れるよう少々荒療治と言えるかもしれない胃腸のリハビリをし、お粥から普通の白米、焼き魚、煮物などの胃に刺激を与えない普通の食事は摂れるようになっていた。
 そうはいっても発熱しモーレツな胃腸炎から5日目。それまで普通の健康状態ではなかったのでいわゆる病み上がり。
 久しぶりの長時間バイクツーリング。くらくらとする日差し。内臓を揺るがす2時間半の船旅。病み上がり早々、なかなかの肉体酷使だ。

 神津島に降り立った時にはぐったりとしていた。さらに、バイクという有能な足を置いてきてしまったので、かなりの大荷物を背負って歩かなければならない。
 この荷物量は雪山の縦走以上にハンパない。何しろキャンプで停泊して魚突きをしようとしているのだから、キャンプ道具に加え、1週間分の米などの生鮮以外の食料、ウェットスーツや潜る際腰につける5キロの重り、手銛などもある。それらを海道具とキャンプ道具で分け、2人で分担したってそれぞれがかなりの量を背負う必要があった。
 特に2人分の重り、つまり10キロの重りが入った海道具の荷物は桁外れの重さなのだ。この前行った雪山縦走なんて比じゃない。、、重りを運んでいるという時点で山を歩くための荷物とは大きくかけ離れているのだが、、。
 これは背負うこと自体が至難の技で、まず、普通に立ち上がることができない。段差を利用して背負うか、ザックの肩掛け部分に腕を通してから地面に両手をつき、バランスを保ちながら全身を使わないと背負うことができないのだ。

こちらはキャンプ道具の方の荷物。まだマシな方


 そんな代物を背負い5月の晴天の下、のろのろと歩き出す。一緒に降りてきた船の乗客たちは自前の車や、泊まる旅館の迎えの車でスイスイと行ってしまった。バイクを持ってこなかったことに早くも後悔してしまいそうになる。。

 しかも港が違っていた。
 降り立って一息つき、地図と現地を見比べてみて、、何かが違う。。そう、裏側の多幸湾側に降りていたのだ。すべて船は前浜港に出入りしているかと思っていたのだけれど、なぜか反対側にいるわたしたち。。
 とにかくここからではこの荷物を背負ってキャンプ場まで歩くことはできない。1日4本しか出ていないバスを待つほかない。亀みたいな私たちにとっての最大の足だ。
 そうして貴重な移動手段に乗り込み、謎が解けたのだ。
なんでも、朝の8時に村内放送で今日の発着の港が伝えられるらしい。通常なら前浜港だが、波が高かったりすると裏側の多幸湾になるらしいのだ。そんなこと全く知らなかった。どこかにそういった情報があったのかもしれないけれど、村内の常識すぎて観光者は島に着くまで知る由もない”島あるある”なのかもしれない。

 バスの運転手さんは饒舌で、なんでも教えてくれた。キャンプ場のことや、島に唯一の品揃えのいいスーパーまでの近道、前浜港前にある「よっちゃれーセンター」の定食は金目鯛の煮付けが丸々一匹ついて安くて美味しいとか、長浜のあのあたりにはブダイぐらいならいるんじゃないかとか。旅行者にとって嬉しい情報から魚突きする我々にとって有り難い情報まで。なんて人のいい運転手さん。職業柄か観光者に親切なだけなのかもしれないが、島人の人柄の良さを垣間見る。


 商店や飲食店が集まる村落で昼食を済まし、散策をしつつ野菜などの買い出しをし、それからキャンプ場に着いたのは日が傾きかけた頃だった。
 朝からフル活動し、太陽光を十分すぎるくらい浴びたクタクタの体でテントを建て、これからしばらく過ごす住まいを設える。



 本当はこの後海に潜るつもりでいたが、そんな気力は少しも残っていなかった。くらくらして頭痛すらある。軽い日射病か熱中症になっているのかもしれない。体が本調子でないにもかかわらず酷使しすぎたか。。
 夕飯のおかずをできれば獲れたらいいということもあり、相方は潜ってくるという。彼もそれなりに疲れているだろうに、食べるものは一応あるしそんなに無理しなくてもよかったが、さらりと行ってしまった。潜るには絶好の穏やかな海を前にして、どんなに疲れていても潜らないわけにはいかなかったのだろう、心情として。

 頭がくらくらとするが、待つ身として、夕飯の下ごしらえぐらいはしなければと、たらたらとやり始める。何か獲れても獲れなくてもどっちに転んでもいいように、ご飯と味噌汁の支度。魚がなければレトルトカレーにしたっていい。

 どれくらい経っただろうか。水を汲みに行ったり夕飯の支度をし、ある程度済んで横になってうたた寝をしていた。気づけば日は沈み、暗くなり始めていた。相方はまだ戻らない。1時間半ぐらい経っただろうか。テントから顔を出し、海の遠くをよおく見てもそれらしい姿は見当たらない。次第に辺りが見えなくなってしまうだろう。海の中はもっと暗いに違いないのにまだ潜っているのか、、?
 3桁の数字が頭を過る、、”118” 。海難においての緊急時の電話番号だ。海上保安庁につながる。
 ただ、海で溺れたらほとんどの場合は助からない。なんらかの状況で酸素が得られなければあっという間に溺れ死んでしまうだろうし、一緒に潜っていても助けることは困難であると感じる。自分自身が危険回避することでしか海では助からないということは相方に口酸っぱく言われ、潜る際いつも意識している。
 ましてそんな状況で118番に通報したところで助かりはしないだろう。しかし、もしものことが起きてしまった時、やはりすがるしかないのだろう。

 ヘッドライトをつけ、海に向かった。彼に限ってそんなことになるはずないと思いつつ、急激に不安になる。
 薄暗くなりつつある水面を探す。すると黒く動くシルエットが浮かぶ。次第に形は大きくなり、人であることが認識できた。足早にしていた足が呼吸とともに緩やかになる。
 辺りはもう、ほとんど暗くなり、ヘッドライトなしでは歩くには困難なツルツル滑る岩場に近づくとようやく姿かたちが見えた。腰には二匹、魚がぶら下がり、意外に水は冷たくないので時間を忘れて潜ってしまっていたと言う。わたしより潜り慣れている相方がまさかとは思ったが、、単なるわたしの思い過ごしだった。




 獲れたのは”オジサン”と”ウミスズメ”。
オジサンはまさに”おじさん”のようにあごひげが生えているのでオジサンと呼ばれている。
どうやらスズキの仲間らしい。
 そしてウミスズメはその場で調べてそれと判断できた。ハコフグより大きく、背中にツノがある。初めてなので食べ方はわからないが、ハコフグ同様に甲羅のような皮をしているのでとりあえずお腹をハサミで開き、下処理をする。
 オジサンも捌いているうちに蟹がうようよと。磯に流した内臓につられて蟹が集まってきたのだ。
意図せずおびき寄せられてきた蟹を、捌く傍で条件反射的に捕まえていく相方。
獲物がまた増えた。

オジサンとウムスズメとカニ。暗い磯場で撮影したので分かりづらくてスミマセン

 
 ウミスズメの食べ方と、念のため、毒性を調べた。
食べ方としてはハコフグ同様、お腹を開けて内臓を取り出し中を洗い、肝だけをお腹に戻し、味噌と刻みネギ、酒を加えて混ぜ、お腹の蓋をして焼いて食べるのが一番美味しいよう。以前ハコフグでそれを食べたがかなり美味しく、また食べたいと思っていた。
 しかし毒性を調べていくと、パフトキシンと言われるハコフグと同様の皮膚の毒があり、それは人間にとっては大した毒ではなく皮を食べなければ問題ないのだが、それ以上に恐ろしい有毒成分があるかもしれないことがわかった。
 それはパリトキシンという毒性で(名前が紛らわしい、、)それによる食中毒の報告もある。ハコフグかウミスズメのどちらかが原因らしく、まだ詳しくはわかっていないようだが、ハコフグに関しては専門家が処理したものは販売可能であり、ウミスズメは販売できないらしい。その時点でウミスズメが十分怪しいが。。
 しかもそのパリトキシン、口から摂取した場合の青酸カリより毒性が強いと言われるフグ毒・テトロドトキシン(致死量は2g)よりも数十倍毒性があるらしい。。またウミスズメの肝と筋肉を食べて死亡したという報告もあるという。。

 ハコフグの味噌焼きのやり方でこんがりといい調子に焼けていたが、さすがに怖くなり食べるのはやめにした。食べられるかわからずに突いてしまったのは良くないが、甘く見て食べてしまって死んでしまっては元も子もないので仕方がない。
 突いてしまったウミスズメには申し訳ないので相方は埋葬し、ウミスズメはもう獲らないこととした。

 わたしは魚の知識がほとんどなく、いざ銛を持って潜っても知らない魚ばかりだと躊躇して突くことができない。イキイキと生きる生き物に対し、自分の手で息の根を止めるという責任を未だに負えていないということが大きいが、さらにそれを美味しく食べることができるかどうか定かでないと自分がその生き物をなぜ殺す必要があるのかと疑問に思ってしまい、自分がいまやっている行為自体、疑問に感じてしまうのだ。
 わたしたちがやっている魚突きは生活がかかっているわけでもなく、むしろ遊びなのだが、だったらやらなきゃいいだろうと自分に対して思う。だけれども、やっぱり生き物を、簡単に手に入る食べ物でしか判断できなくなってしまうような感覚は、生き物としての自分自身を危うくしてしまうと感じる。これは自己満足でしかないのかもしれないが、自然と向き合うことで自分自身を生かすという本質を見つめることができるのではないかと思ってやっているところがある。

 だから今回のウミスズメのことを思うと、獲物を知ることが自然と向き合うことだよなあと尚更思う。獲ったものをとりあえず食べてみて知るということもあるが、今回のように食べたら死ぬ可能性のある生き物はいくらでもいるだろう。毎度知らずに食べてたらあっけなく命を落とすかもしれない。
 とにかく、もっと知る必要がある。少なくとも自分が潜ろうとする海にいる生物のことぐらいは。 まだ潜る前のことなので表面上の海の表情ではその中にある景色は知る由もなく、そうなるとまだ実感も湧かないのだが。今回は魚を突くために、相手を知り、覚悟をしようと思う。


 オジサンは刺身と塩焼きにして食べた。刺身は甘みがあり、塩焼きは淡白ではあるが塩で旨みが引き出され、いい味だった。蟹は出汁をとり、味噌汁にした。濃厚な蟹汁は本当に美味しい。



 ただ、残念なことに頭痛と気持ち悪さで食欲はあまりなく、少し食べてばたんきゅう。。


2016年5月12日木曜日

胃腸炎からの旅

 先日、重度の胃腸炎になってしまった。
重度というのはあくまでもわたしの中での基準であるが、モーレツな腹痛と下痢に襲われ、何か食べるたびに、十数分後にはその症状が襲い、それを何度も繰り返す。
次第に何も食べられなくなり、お尻から水が出てくるようになる。
 その日の夕方からそんな状態となり、徐々に深刻になってゆく。
 夜、悪寒がして体がだるくなってきた。この状態に覚えがある。熱が出る時の前ぶれだ。
布団に入る頃には明らかに熱が出ているのがわかった。悪寒がするのに体が発熱している。布団の中がサウナのようにむわっと暑い。けれども顔まで布団をしっかり被っていないと寒い。体が異常であることが朦朧としながらもよくわかる。
 夜中の間も何時間かおきに急激な腹痛で起こされトイレに駆け込む。布団から出ると背中に寒気が走り、体がふらふらとする。頭がいたい。

 朝になってもたびたび腹痛に襲われる。もう出せるものはないのに。体温は38度。高熱が続く。
 原因は一体何だったのだろうか。なにか食べ物に当たった覚えはない。しいて言えばランニングをしに行った公園の水を飲んだぐらいだろうか。。
 それともなければ食生活が乱れていたからか。最近糖質とグルテンを取り過ぎていたきらいがある。
 私は日頃、糖質中毒なところがあり、気をつけていないと取り過ぎてしまっていることが多々あるようだ。白砂糖には依存性があるというが私はまんまと毒されているのだ。以前も菓子パンなどを常食していた頃に胃腸を壊したことがある。
 今の生活状態においてストレス性ということは考えられないので今回も糖質を過剰摂取していた、乱れた食生活が原因のように思う。
 しかし今まで高熱が出るなんてことはなかった。いや、一度だけある。

 今から7年前、私は初めての海外旅行でインドへ行った。インドは日本に比べたら不衛生だ。水道水は飲めないし、聖なるガンジス河では死体を流し、服を洗濯し、沐浴をする。通りに並ぶ屋台は、取り替えているのか定かではない油で揚げた揚げ物が売られている。
 そういったものを食べていたからか毎日お腹はなんだか壊していた。しかしあまり気にはせず旅を楽しんでいた。
 ある日、歯を磨いていた。気を使う人は飲料水を使ったりするが、私はずっと水道水で口をゆすいでいた。そして、誤って水を飲んでしまった。しかし微量だし問題ないだろうと軽く考えていた。すると数十分後、急激な腹痛が襲ってきた。ガンジス河のほとりで佇んでいたときに。
 みるみると体が熱くなってゆく。体温計なんて持っていなかったので正確な体温はわからなかったが、明らかに高熱が出ていることが自分の体を通して感じられた。
 その日は移動の予定だったのでフラフラになった体を支えながら移動し、寝台列車に体を横たえた。日本から持ってきたバファリンと、現地の飲料水とバナナをお腹に入れ、次の街に着くまでの12時間、私は深い眠りに落ちていた。目覚めた時には嘘のようにスッキリと熱は引き、完全に回復していた。その後の旅は問題なく最後まで楽しんだ。
 しかし日本に帰ってきてから胃腸炎のくせがついてしまった。食が乱れたり体調が荒れるとすぐ胃腸に影響が出る。もしかしたらインドで細菌をもらってきてしまったのかもしれないと、今日まで疑っている。

 そして今回の高熱。どうも怪しい。インドでのことが思い起こされる。
 熱も下痢もおさまる兆しがない。このまま放っておいたらどうなってしまうのだろうか。明後日には駅伝を控えている。その2日後には旅に出る。それまでにはどうにか治したい。
 しかし自分の体の状態がよく分からない。先が読めない。この先1週間でも寝ていられるならとりあえずほっとくだろう。しかしそうもいかない状態が待ち受けている。
 他人の力に頼るしかない。とにかく現状を打開したかった。


 平日昼間の病院は混む。お年寄りがたくさんいる。私はお年寄りに紛れ込み、ふわふわとした意識で重い頭を支えながら私の番を待つ。
 胃腸炎かもしれないと伝えたら、マスクを渡され、車椅子用の完全個室トイレを使うよう指示された。待ち時間が長いので、看護師さんが気をつかってくれ、空いている診療ベッドで休んでいていいと言ってくれた。なんという待遇だろう。半分隔離のような感じはあるが、胃腸炎というだけでこんなに特別視されるなんて。体調としてはインフルエンザと似たようなものなのに。いや、ちょっと違うか。
 実は病院にやってきてからしばらく腹痛が治っていて横になるほどでもなかったのだが、ここは好意に甘えて長い長い待ち時間を休ませてもらうことにした。頭痛が辛いには辛かったし。

 一度目の診察。
医者は高熱を疑った。胃腸炎でここまでの高熱が出るのは怪しいと。
ええ、私もそう思います。
 医者はインフルエンザと疑う。
え?そっち?!
 自分としてはそんな気は全くない。これは胃腸炎が濃厚と思うのだ。だからその線で正体を暴いてほしいのに。
しかし医者を頼って来た身。ここはお医者の考えに従ってみるしかない。
 インフルエンザの検査をする。鼻の穴の奥まで細い綿棒を突っ込んで、グリグリっとやるやつだ。あれは結構痛い。小さい子なんかは泣いてしまうが、その気持ちはわかる。私はいい歳なのでさすがに泣きはしないが、苦痛ではある。
 そうしてまた、結果が出るまで待たされる。

 二度目の診察。
結果は陰性。やっぱりね。インフルエンザとは違うものだとはわかっていた。
 そうなると、今度は高校生の時に薬で散らした盲腸に疑いがかかる。
 
 高校生の頃、盲腸になったことがある。
 私は食欲が旺盛だった。育ち盛りのうえ運動部だったこともあり、運動量と消費量が多い分、ずいぶんと食べていた。一回の食事にお茶碗三杯は軽く食べていたし、三食の食事に加え、二回ほど間食もしていた。それが一時歯止めがきかなくなり、度の超えた暴食をしていた時期があった。そしてついには胃腸が悲鳴をあげたのか、盲腸になってしまった。
 その時は本当に死ぬかと思うほどの激痛だった。痛くて痛くてじっとしていられないのだ。しかし私のお腹の中で暴れた部分は手術するものでもないらしく、お腹を切らずに薬で散らすことで収まった。それはまた再発する可能性があるという条件つきなのだが。。

 その可能性に目が向けられたのだ。
私は盲腸を経験し、その後何度か再発の可能性があることを今まで感じてきた。
 しかし、今回はどうもそれじゃない気がする。まず、腹痛の場所が違うのだ。でも先生はその方向性を疑ってかかっている。そうなると私もそんな気がしてきてしまうじゃないの。。
 先生に促され、検査することになった。採血をし、エコーでお腹の様子を診てもらう。
 ぬるぬるとしたやつが当てられて、お腹の上で転がされる。これ、知ってる。以前も盲腸の再発を疑われ、同じ検査を受けたのだ。結果は陰性だったが。。

 そして三度目の診察。
またしても陰性。先生、やっぱり違うじゃないかあ。。
 そして結局胃腸炎ということで落ち着く。まあ何かしらの細菌が原因なんでしょうね、と。しかしその先を暴く感じではないらしい。えーー、、私はそれを知りたくて先生に頼ったのに。。
 解熱剤やら、痛み止め、下痢止め、胃腸の炎症を治す薬を処方してもらった。
 「私、明後日に駅伝に出るんですが、それまでに治りますかねえ、、?」
そんなこと先生に聞いても仕方がないだろう。自分の体なんだから。でも、具体的な答えが結局出ずじまいで、これがおさまるのかも分からなくて、不安だったのだ。ぽろりと口から出てしまった。
 「うーん、明後日だからなんとも言えないねえ。走るなとは言わないけど、自分の判断で」
 そりゃそうだ。

 いろんな検査をして思った以上にお金がかかった。朝一で病院へ行き、帰る頃には午後になっていた。おまけに具体的な結果がわからなかった。なんだこれ。
 まあ病院てそんなものだよな。たとえお医者でも他人の体のことは医者として客観的にしか診れないのだし、自己管理ができない私がまずいけないのだし。薬を飲んでこの状態が良くなれば十分助かる。

 薬のおかげで熱はすんなりと下がった。お腹の状態はすぐに良くならないが、試しにジョギングしてみると、意外と走れるかな、、?
 しかし当日、たとえ3キロといえど甘く考えてはならなくて、胃腸炎も甘く見てはならなかった。
 私は敢無く棄権し、仲間が私の分まで走ってくれることとなった。自分の自己管理の出来なさのせいで。。申し訳ない。。

 その2日後、私は胃腸炎が完治しないまま旅に出ることとなった。お粥やすりおろしりんごから始め、少しずつ食べられるものを増やしていく途中だった。これは食べてもすぐお腹が痛くならないな、あ、これはダメだ、全部出て行ってしまった、、などと実験しながらお腹の調子を探っていた。
 まだまだ食べられないものが多い中、旅に出るなんて初めてだ。
旅の途中で体調を崩して食べられなくなったことはあったっけ。
 
 旅しながら体を治していく。旅が、体を見直すいい機会になったりして。

2016年4月12日火曜日

雪山ゆるゆる縦走の旅ー保存食と山ごはん・その2ー

今回、雪山で作った料理は全てぶっつけ本番であった。

料理のレシピなど見たりしてなんとなくどんなものが作れるか、どんなものを作りたいか、どんな完成形になるだろうか、どんな味になるだろうかなどとイメージはしていたものの、山に入る前に実際に料理してみることは一度もなかった。

単に面倒だとかそれをする時間がなかったということも言えるが意図してそうしていたということも言える。
リハーサルをしてしまうとどんなものが出来上がるのかが大体わかってしまうので、当日現地での楽しみが半減してしまうことを危惧していたのだ。
山に入って初めて作るということは失敗するかもしれないというリスクもある。
まぁしかし他人に振る舞うというわけでもないし、私たち2人だけの食事なので完成度よりもワクワク度を選んだというわけだ。


そして今回もっとも失敗のリスクを危惧していたのは「米」だった。

雪山以外の旅の時はいつも米を炊いている。
けれど米を炊くには20分ほどガスコンロを使うことになり、ガスが命の次ぐらいに大事な雪山生活では極力調理でのガスの使用は減らしたいところだ。
そうなると、米を炊くなんて以ての外でアルファ米がとても有効だ。
昨年は大量に持って行っていたが、アルファ米はそれなりに高いし何食もアルファ米ではどうにも面白みに欠ける。

本来雪山登山をする人は食事の面白みなんて多分関係なくて、いかにガスを食事で節約し
、いかに軽くて簡単に高カロリーの食事を摂れるかということが重要と考えているだろう。
そもそもわたしは自分が雪山登山をしていると思っていないが、食事の面白みはわたしにとっては重要だ。なので雪山で調理することも重要だ。
それでも極力ガスの使用は抑えたい。

それで行き着いた結論は「干し飯(ほしいい)」を使ってみることだった。

干し飯とは、炊いたご飯を水でさらし、天日干して乾燥させたものを言う。
干し飯は「乾飯」・「糒」(ほしい)とも言い、出雲風土記にも「御乾飯(みかれひ)」として出てくるほど相当古くから食べられてきている保存食であり携帯食だ。

今やアルファ米を始め、あらゆる保存食が出回っているのでそんな大昔の保存食を現代で作ってる人なんていないだろうと思いきや、意外にいるようだ。
手軽に作れるということと、うまく保存すれば20年も保つというスーパー保存食だからだろうか。災害時などに備えて作って置いている人もいるらしい。

うん、これはやっぱり作ってみないわけにはいかないな、と思い立ち。
冬晴れの朝、炊飯器に残った冷や飯をざるにあけ、水にさらしたものを外に干す。





朝外に出し、夕方取り込むということを5日間ほど繰り返し、カピカピに乾燥したご飯が出来上がった。
見た目としては、ご飯食べてて服に米粒がくっついて、時間が経って気付いた時の状態だ。
なので、美味しそうには見えない。
試みでもあったが山に持っていくことを念頭に置いて作った。しかし出来たものを見たら山に持っていく気が失せそうになる。
え?マジでこれを山に持って行って食べるつもり?!と自問自答してしまう。
それだけ不安になってしまう見た目なのだ。

いやしかし、と決心し、「相方よ、すまん」という想いでメニューに組み込むことにした。
、、、しかし自信なさげに料理するのはよろしくないので、さも自信たっぷりのメニューです、というような意気込みで現場では挑むことにした。


一般的な食べ方は水やお湯でふやかしたり、炒めるたりして食べる。あとは油で揚げておこしみたいに食べることもできるようだ。
忍者とか戦国時代の合戦の場では乾燥したものをそのまま口に放り込んでゆっくり柔らかくしながら食べていたという噂も聞いたことがある。

忍者のようにそのまま食べるなんてことは考えられないので、今回の食べ方は一番うまくいくだろうと思える雑炊だった。
干し野菜も加え、その旨味を活かした雑炊だ。ここで以前教えてもらって作った鉄火味噌も味付けに加えるつもりで考えていた。


干し野菜と干し飯の雑炊に鉄火味噌を加える

 
なんと、これはかなり美味しかった。

あまり期待していなかったからかもしれないが、 いい意味で思い切り裏切られた。
どうやら干し飯は雑炊にバッチリ向いているということだ。
そして干し野菜・干しきのこと一緒にしばらく水につけておくことでいい出汁が出て、風味が良くなる。
また、鉄火味噌によってコクが出て、バランスのいい味になる。

この日は朝から最高にいい気分になってしまった。
朝ごはんってホント大事だよなぁと思う。


これからは干し飯を持って行こう。
炊きたてのご飯が一番だけどね。






2016年4月7日木曜日

雪山ゆるゆる縦走の旅ー保存食と山ごはんー

雪山の旅に向けていろいろな保存食を作ってみた。

雪山は、冷蔵庫あるいは冷凍庫の中にいるようなものなので夏山よりも食材に気を使わずいろいろ持っていくことができる。
最近はフリーズドライなどの食品がたくさん出ていて、軽くてお湯を注ぐだけで食べることができ、しかも美味しいので夏冬問はずそれで済ます人は多いだろう。
私たちもそれらを山に持ち込んでいるが、それだけだとどうも味気なく感じてしまう。
そう、せっかく雪山なのだからいろいろな食材を楽しみたい。調理や食事を含めた、雪山でのくらしを楽しみたいのだ。
なので毎回、食事を楽しむために何かしらの「お楽しみ食材 」を持っていくことにしている。

また、寒いということでカロリーの消耗が激しく、高カロリーなものを必要とする。
例えばそれは、肉や油。
昔からの定番は肉と野菜を油で炒めて冷やし固めたペミカンだろう。溶かしてそのまま食べたりシチューの具などにして使うらしい。
ペミカンの元をたどるとアメリカやカナダインディアンの伝統食らしく、バイソンやヘラジカなどの乾燥させた肉と、クランベリーなどのドライフルーツを動物性脂肪と混ぜて密封して固めた携帯保存食らしい。
わたしは雪山登山式もインディアン式もやったことないのだが、インディアン式のにはとても興味があるので、いつかバイソン肉などが手に入った時にやってみたいとは思っている。

そして今回はバイソン肉なんて手に入らないので、他の保存食について考えてみた。
まず高カロリーで栄養価が高くて美味しいもの、そして保存がきくものとしてレバーパテを作ったことは以前記事に書いたのでそれを参照していただきたい。

また、パテを作ったということは白飯じゃ食べれない。そう、バゲットが主役になるのだ。
しかしバゲットを食べる時、毎回パテじゃ飽きてしまう。
じゃあ他の具材はどうしようかということで、寒い国の代表格(と、わたしが勝手に思っている)ロシアの保存食を参考にしてみる。
寒い国は脂肪を蓄えなければやっていけないだろうし、厳しい環境であるということは食材が手に入る時期も限られてくるだろう。それはつまり、高カロリー保存食文化に長けた国だと思うのだ。

そこで見つけたのがニシンの塩漬け。
肉でも魚でもなんでも保存方法によるが、塩漬けにすることで保存がきく。
さらに塩漬けにしたのをオリーブオイルに漬け込んで保存することで1カ月は持つという。すばらしい保存食だ。食べてみたい。
さっそく作ろうと思ってスーパーでニシンを探したが、見つからない。
やっぱりニシンは寒い地域にしかいないのだろうか、関東ではあまり出回らないのかもしれない。身欠き鰊ならどこにでも売っているんだけどなぁ。

もう諦めてイワシの塩漬け(つまりアンチョビ?)にしようかと思っていた時、ニシンを発見!
しかも生食可能だ。よかったー。

さっそくニシンの塩漬けを作る。



作り方は簡単。
うろこを取って腹を割って内臓を取り、頭を落として三枚におろす。




両面に塩と砂糖をまぶして冷蔵庫で一晩寝かしたのち、水気を拭き取って皮を剥ぎ、丁度いい大きさに切ってオリーブオイルに漬け込んで完成。





ニシンって食べたことある気がしないし、生食でどうなのかなぁとも思いながら作ってみたけれど、美味しい。生で問題なし。バゲットに合うこと間違いなし。



それから何か付け合わせが欲しいよなぁ、バゲットに合わせるなら洋風な感じがいいよなぁ、、ということで、ザワークラウトも作ることに。




ロシアの保存食でもキャベツの発酵漬けという名前で存在するが、今回はザワークラウトとしてのレシピを参考にすることにした。

塩、キャラウェイシード、ローリエ、粒胡椒、唐辛子、セロリなどを水に混ぜた調味液を作り、そこへざく切りにしたキャベツを投入して軽く揉む。
それから保存瓶に移し、重石をし、あとは発酵を待つだけ。
しかし発酵するのには20度ぐらいだと一週間ほど、25度くらいで三日ほどかかる。
夏場だったらほっといてもすぐにできそうだが、冬場でその温度を保つのはなかなか難しいだろう。しかも旅に間に合わせなければならないので、ザワークラウトが入った瓶をストーブの前に置いたり、抱いて寝たりし、どうにか発酵を促す。

発酵する前はただのしょっぱいキャベツだが、日が経つにつれ、少しずつ酸味が出てくる。
旅の前日ぐらいになってようやく酸味も強くなり、ザワークラウトの味となった。
唐辛子の辛味とセロリの味がいいアクセントとなり、我ながら結構イケている。


また、ザワークラウトはそのまま食べても美味しいがスープの具にしても美味しい。
今回のメニューではスープとしても使い、ザワークラウトと他の具材を入れ、塩胡椒で味付けして食べたがいい味になった。


下山する日に、四川風麻婆豆腐の素とベトナムスープフォーの素で作った「麻婆ベトナムスープフォー」に余った食材を入れてしまおうということで、ザワークラウトも投入したのだが、意外にも味がかき消されずに絶妙な風味となり、ここでもいい仕事をしてくれた。

偶然の産物だが、間違いなく「わたし的山ごはんベスト10」には殿堂入りしただろう。
中国とベトナムとドイツの食材が出会ったらこのようなことが起こるのか。。

四川風なので激辛だが、辛味の中に旨みがあり、ヒーヒー言いながらスープも全て飲み干してしまった。

麻婆ベトナムスープフォー(ザワークラウト仕立て)



それから、今回結構重宝したといえば、「サロ」だ。
これもロシアに伝わる保存食で、豚の脂身を塩漬けにし生のまま食べる方法だ。
ロシアの人はこれをバターの代わりにパンに乗せて食べるらしいが他の国にこんな食べ方があるのだろうか。
ベーコンや生ハム、沖縄の塩豚など豚の保存食はいくつかあるが、豚の脂身を生で食べるなんていうのは初めて聞いた。
しかも塩漬けだけで本当に生で食べていいのだろうか?
塩豚は結構強めの塩に漬け込むが、食べ方としては焼いたり煮たりなどし生では食べないはずだ。
生ハムも以前作ったことがあるが、ソミュール液に漬け込み、その後しっかりと水抜きをし熟成を重ねるから生食であって生食でない感じがある。

サロの作り方は至ってシンプルで塩と砂糖、ニンニク、粗挽き胡椒を肉にすり込んでラップで包み冷蔵庫で5日ほど寝かしておくだけなのだ。

本当にこれで食べられるのか??
興味をそそられ作ってみることにした。




作ってみて、生で少しだけ試食してみたが、食べられないことはない。あとはお腹を壊さないかどうかだが、それも特には問題なさそうだった。
また後でわかったが、ロシアでも雑菌が繁殖しにくい寒い時期に食べているらしい。
やはり季節を選ばないと豚の生食は塩漬けでも難しいということだろう。

しかし日本人的な味覚からして、やっぱり豚の脂身は火を通した方が美味しいと思う。
味としてはニンニクや塩胡椒、またオリジナルでハーブシーズニングもすり込んだので焼いて食べたら美味しいに違いない。
重量としては少し重たいが「お楽しみ食材」として半分ほど山に持って行くことにした。

そしてそもそも豚肉なので、サロはどんな料理にでも使え大活躍した。


炒めたサロと干し野菜をパスタの具に







フリーズドライの食品にはほとんど頼らずに、作った保存食を中心に調理することは失敗する可能性もあった。また、質素な食事にもなりかねなかったので不安ではあった。
美味しくなかったり詫びしい食事はチームの士気が下がるので料理担当として責任重大だが(と言っても2人旅なので相方から苦情が出るだけだが)、それでもやってみたくて、やりたいようにやらせてくれた相方には感謝している。

結果的には満足いくものとなったのでホッとした。
無論、もとの素材はいいのでそのまま食べるには美味しいが、それを食材として活かした料理も毎度実験的であったが大概想像以上に美味しくできたので、その都度食事の時間が至福の時となっていた。

「こんなに持って行く必要あるのか?」と疑われていたバゲットも好評を博し、朝も昼も夜も大活躍していた。朝ちょっと食べたい時や、行動食に、また夕飯が足りない時などちょこちょこ食べ、後半では食べる量をセーブしていたほどだ。
夏はカビが心配だが、これも私たちの旅の定番になりそうな予感だ。


雪山での昼食。バゲットにパテとザワークラウト、ピーナッツバター、マヌカハニー。それからチャイ。