2017年2月23日木曜日

「この世界の片隅に」

 映画「この世界の片隅に」をやっと観てきた。

 昨年、「君の名は」をまわりの人が勧めるし、どんどん話題になるので、これは観なきゃならないんじゃあないか、という気になってきて、よし久しぶりに映画館でアニメ映画を観に行こうとなった。この映画はずいぶん話題になったし多くの人が観ているかと思うのでここではそれについては書かないけれど、確かに面白かった。観に行ってよかったと思う。熱が冷めぬうちに友人に話す機会があったのでその熱を伝えると、「まだ観てなかったんだ(笑)でもこっちの方がわたし的にはよかったよ」と教えてくれたのが「この世界の片隅に」。え?この映画よりよかったの?!と、わたしの頭の片隅には「この世界の片隅に」がずっととどまり続けていた。
 
 大人になってからアニメ映画はジブリぐらいしか観てこなかったわたしのアニメ映画の概念はぶっ壊れて、気になり出してしまった「この世界の片隅に」。それもだんだんと巷でも話題になっている、、、ああ、やっぱりこれも映画館で観るべき映画なのか。よし、観るぞ!と意気込んではみたものの大手企業が制作した映画のようにどこでも上映している映画とは違って場所が限られているし、できれば1100円で観られるレディースデイに行こうとか、そういったもくろみでなかなかタイミングがつかめずにいた。
 それが今日、降ってきたようなタイミング。あれ、レディースデイじゃん。これは観るしかない。

 実際に観て。やっぱり観てよかった。しかし一人で観にいってきて感想を伝える人が近くにおらず、悶々しているので熱が冷めぬうちにと、こうして書いている。
 まだ観てなくて、観ようと思っていて内容知りたくない人はわたしの感想ではネタバレになり兼ねないので要注意。笑

 映画が始まってすぐに涙腺がゆるむ。多分、普通の人は泣きどころではないと思う。挿入歌の歌声と柔らかな風景描写、ヒロインの女の子の佇まいの懐かしさなどが心の琴線に触れてしまったのだろう。心の動きとピタリと連動するかのように機能するわたしの涙腺はいとも簡単に決壊する。そして、120分ものあいだ、涙腺は開通しっぱなしであった。

 映画の舞台は戦前から戦後にかけての広島と呉。主人公の幼少期からはじまり、18になる頃、顔も知らない人のところへ、知らない呉の土地へと嫁ことになる。ほんわかとしたマイペースな主人公だけれど、慣れない嫁ぎ先で生きていくために自分なりに努力をしてその家のやり方を覚えていく。当たり前のようにそれを受け入れているように見えるがそれでも10円ハゲはできて。
 昔の人は心が強かったわけではなくて。その時代の「当たり前」をただ、受け入れる。
 
 嫁いで間も戦争が始まって食料が配給制になる。少ない食料でどうやって家族のお腹を満たそうか。主婦同士で情報交換し合ってご飯の炊き方の工夫、食べれる野草の種類や調理方法の習得。着物をモンペに仕立て直す方法。家族総出で庭に防空壕を作る。
 ただ家のことをこなすだけでなく工夫しなければ生きていけない。家族や地域と協力しなければ生きていけない。

 ついに空襲が始まって、空襲警報が昼夜問わず突然鳴りだす日々。鳴り出したら防空壕。仕事に出かけ、家事をし、配給に並び、空襲警報が鳴り、防空壕で待機し、干した洗濯物が煤だらけになる日常。故郷から兄が骨になって帰ってきたという知らせを受け、兄の脳みそだった小さな塊と対面するも実感がない。日々を生きる人たちにとって戦争は日常でありながら遠くにあるよくわからない存在。よくわからないものによって作られている日常。
 
 呉の空襲が激しくなり、 ついに主人公は自分の右手とその手を繋いでいた義姉の子供を失うこととなってしまった。ただ、無常感。子供を失ったのは自分のせいにできる。けれど、右手も子供も時限爆弾によって失ったのだ。
 右手を失って家事がままならず、義姉の子を失わせてしまって義姉との関係もギクシャクしてしまい居づらくなってしまったが家族はそんな主人公を受け入れていて、自分の家族・居場所はこの家であることを再認識する。
 
 晴れた日のある日、空がピカッと光り広島の方にあの、「雲」が昇っていた。呉では広島に何が起きているのか分からなかった。
 そして8月15日、ラジオで終戦が告げられた。?終戦したってこと?日本は負けったってこと?日常を生きる人にとって実感は湧かない。ようやく広島に行くことができて実家に帰ってみれば姉は弱っていて、母はあの日街へ出たっきり帰ってこない。父はあの日の数日後に死んでしまったらしい。広島の町は変わり果てていた。変わり果てた町でみんな誰かを探している。人々はそれぞれに日常から何かを失ってしまった。
 それでも日常は生きている限り続いている。失ってしまったことを受け入れて生きていく。
 主人公夫婦は戦災孤児に出会い、連れ帰って家族となった。生きている人で支えあって、前を向いて歩く。

 この世界の片隅に、ある日常。その時々の日常を受け入れて、誰かと誰かが出会い、支えあって、日々を生きているんだ、という、この世界の片隅にある、声。
 今もじーんと、心に響いている。