2016年3月23日水曜日

雪山ゆるゆる縦走の旅ー1日目・高湯温泉ー

今年最初で最後になるであろう、スノーシューでの雪山歩きをした。

今年の冬は暖冬であった。
そのためわたしたちは場所選びに手間取っていた。
本当は立派な樹氷を見たかったけれど、そんなこと言っても自然相手なので叶わないものは叶わない。
雪洞を作りたいけれど、必ずしも十分に雪が積もっているとは限らないし、作れる条件が揃った場所に出会えるかどうかもわからない。
暖冬であるために、過去の情報とは違っているだろう。

いくつかの選択肢を見比べて、今年この時期にはどこへ行ったら面白いかと考えた。

最低、スノーシューで少しでも山を歩ければいい。
できれば樹氷も見れたらいいけれど。
できれば雪洞をもう一度作って過ごしたい。
天気のいい雪山を歩きたい。
、、まぁでも最低吹雪かなければいいか、、などと、願望と妥協を往き来しながら妄想を膨らませたりしぼませたりと、せわしなくやっていた。

天気予報もあまり良くなかった。
それで決めかねていたところもある。
この時期は山の天気は崩れやすい時期でもある。吹雪いてしまったらしようがないと思うしかない。停滞するか、下山するか、しかないと思う。
なので時間的な余裕は作っておいた。下山ルートもいくつか考えておいた。


今回はJRから季節限定で発売される青春18きっぷを使って移動した。
目的地の福島はこの時期主要な道路には雪もないし確実にバイクで走れるのだが、どうにも今回わたしたちは肉体的にも時間的にも余裕がなくて、バイクで行くということには至らなかった。
バイクで行くとなると体が疲労することは分かりきっているし、山の計画以外にも計画を立てたり、バイクのメンテナンスやら、やることが一気に増えてしまうので時間的な余裕もなければできないのだ。
そこで、新幹線よりも高速バスよりも疲れるが安く、バイクよりも高くつくが疲れない方法で山へ向かうことにした。



初日はわたしの誕生日ということもあったので、福島にある高湯温泉のちょっといい宿に前入りをした。温泉は薄い乳白色のお湯で、男女それぞれ内湯と露天風呂がある。
男湯の露天風呂は打たせ湯や洞窟風呂などもありかなり広い。
通常の時間は混浴で女性の外湯から合流することができる。わたしは今まで各地の混浴風呂を手拭い一枚で入ってきたので今となっては恥も躊躇もないのだが、今回は女性専用時間が設けられていたのでわざわざ混浴を選ぶことはせずに女性の時間で楽しみに行った。

わたしが入浴したときは女性も誰もおらず、迷路のような池のような広い温泉を、ひやりと寒い星空の下、吐く息とも湯気ともつかない白い靄の中をひとりで歩いていた。
そう、温泉を歩いていたのだ。
序盤はふくらはぎの高さほどしかお湯はなく、しばらく小川を渡渉するように、女湯から広大な露天風呂へ歩いていくのだ。
意外に移動距離が長いので、全裸が夜風にさらされ、ひやりどころではなくなってくる。
全身がブルブルしてきたところで打たせ湯に行き当たる。
上からドバドバと滝のように降り注ぐお湯に体を突っ込む。
頭や肩、背中がお湯に叩かれる。
うわぁ、きもちー。
からだの、凝り固まった部分にお湯を当てると揉まれるように体を押し叩いてくれるのだ。
しばらくお湯の滝の下で突っ立っていた。

打たせ湯を過ぎると道が分かれ、岩のトンネルへ入る道がある。これが洞窟風呂だろうか。
入ってみると肩まで浸かることができ、お湯の温度もちょうどいい。岩に囲われ仄明るい暗さが落ち着く。確かに洞窟のようだ。

洞窟を出てまた小川を歩くと、少しずつ深くなっていく。一番奥までいくと肩まで十分に浸かれる深さが広々とあった。このエリアが温度も一番高いようでちょうどいい。やっとたどり着けたような感じだ。
ちょっとしたアトラクションみたいな温泉探検が終わった。ようやく落ち着く。
温まりきっていないからだをしっかりと浸からせる。

しかし帰りもまた夜風にさらされながら戻り、女湯に着く頃には湯冷めしてしまっていたので内湯でしっかりと入り直すほかなかった。

温泉は勿論とてもよかったが、やはりいつもわたしたちが利用する宿よりもランクが上なだけあって、部屋も食事もサービスも良かった。しかしサービスがいいのは嬉しいことだけれど、何しろ普段されなれていないので、少々落ち着かずそわそわ。。やっぱり質素な宿の方が性に合うのだろうか。

食事に関しては、工夫を凝らした和食の創作料理と言ったらいいのか、相方はかなりおいしいと終始上機嫌だった。
しかし残念なことにわたしは花粉症で鼻が利かず、さらに調子に乗って日本酒を頼んでしまったが為に鼻の穴が完全閉鎖してしまうことに。
誕生日であるということが上乗せされて、お酒を飲みたくなってしまった気持ちが残念な結果に至らせてしまったのだ。
その後は鼻詰まりに苦しみながら、匂いのしない料理を、ひたすら美味しいと言っている相方を横目でみながら、美味しいかどうかもわからないものをとりあえず口に運んでみるという、なんとも残念な食事だったのだ。

味覚というのは嗅覚と視覚があってちゃんと認識できるものなんではないかと思う。とりわけ嗅覚というのは想像以上に大部分を占めているのではないかと。
嗅覚を失ったときにその重要さをはじめて感じたのだ。
嗅覚を失ってしまったわたしは、甘い・辛い・しょっぱい・酸っぱいぐらいは分かっても、繊細な味付けを施した創作料理は、その微妙な風味を感じ取ることが出来ずそれが何者であるかさえ分からないのだ。

わたしは自分がしてしまった過ちにただただ後悔しながら義務的に食事を口に運んでいた。叶うならば杉花粉が飛んでいない時にもう一度この食事を食べられることを望みながら。

また、この宿のロビーはとてもよかった。
囲炉裏を囲んでくつろげる席と、3人掛けの肘掛け椅子やロッキングチェア、そして暖炉。少しごちゃごちゃしていてちぐはぐな感じがなんとも居心地がいい。風呂上がりなどにこの空間で寛いだりしていた。

そして、なんと植村直己さんの色紙が飾られていたのだ。
それを発見したときは何の接点もなさそうな宿に見えたので見間違えたかと思った。
まさかこんなところにそんなものが何気なく飾られているので、おそらくほとんどの人は気付かないだろう。いや、そもそも山に興味のない人は彼を知らないだろうし、植村直己を知る人はよっぽど温泉好きでなければこのような宿には泊まらないかもしれない。

聞くところによると、先代のご主人と交流があったらしい。
賑やかなロビーのしつらえにとけ込みながら、誰にも気付かれないように、それでいて堂々と壁にとどまっていた。

額装された色紙には、サインペンらしき細い線で「北極犬橇」と書かれていた。至ってシンプルだ。なんなんだ、これは。
そんな四文字熟語はない。ただの四文字だ。しかし、北極だけではだめだし、犬橇だけでもだめなのだ。「北極犬橇」だから植村直己なんだろう。

北極犬橇。その4文字はただならぬ存在感を放っていた。






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